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人生朝露

人生朝露

「看羊録」その4。

あと1回くらいは。

本来、この本は「倭寇」について調べてみようと思って借りた筈なんだけども、実際のところ、「看羊録」には、倭寇についての記述がほとんど載っていない。それこそ、韓国の学者さんの中には、秀吉の朝鮮出兵と倭寇を同一視するような傾向があるのに、姜コウにはその意識がない。

そもそも、「看羊録」というのは、姜コウが付けた書名ではない。彼は、この本を「巾車録」と名付けている。

「看羊」とは、前漢の武帝の時に、匈奴のと戦い、李陵とともに捕らわれた蘇武が、帝から授かった旗印を放さず、羊の番をしながら降伏を拒否し続けたという故事に基づく。(李陵は降伏して、司馬遷が彼を弁護して去勢された・・という故事は有名)。

「巾車」というのは、「金印」で有名な後漢の光武帝の家臣で「大樹将軍」の異名を持つ馮異(ふうい)のこと(またマニアックな)。馮異は、光武帝に遣える前は敵方の王莽の役人であったが、偵察中に光武帝に捕らえられる。馮異は、光武帝には帰順したが、その後更始帝の配下が派遣されることになった時には、城を閉ざして抵抗をしている。すなわち彼は、光武帝に帰順したのみで、他の者に遣える気はない。もし、光武帝が死んだときには敵に回るぞとして、自らの節を曲げず主君への忠誠を尽くした人物。

この二つの故事には大きな相違点がある。「捕らわれの身であった」「自らの節を曲げなかった」という点では二つとも変わらないが、姜コウが付けたオリジナルの「巾車」の方には「華夷思想」がない。すなわち、姜コウは、それまで朝鮮にとって脅威であり続けた「北方の騎馬民族」と、「南の倭」は少し毛色が違うぞ、ということを意識していた様にも思える。野蛮な民族には変わりないが、日本は文明を享受してそれを活かす術を知っているぞ、というような・・。まぁ、個人的な推測なんだけどね。

姜コウは日本脅威論者として、南への備えを強化するように唱えている。

「つとに、心ひそかに考えたことであったが、百万の野人(女真族)さえ、十万の倭卒の敵ではない。にもかかわらず、国家は南を軽んじ、北を重視する。いまだにその理由が分からない。」

「数百年前の倭国の法令は、ほぼ明朝やわが国と異なることなく・・おおよそ同じであった。」

「今から五十年ほど前に、南蛮船が一艘倭国に漂着した。砲や矢、火薬など、物を満載していた。倭人はこれについて砲術を学んだ。倭の性質は怜悧でよく学び、四、五十年の間に妙手が国中に広がった。今の倭奴は昔の倭奴ではない。わが国の防御もまた、古の防御ではいけない。」

客観的な部分を拾っただけだけど、この識見はなかなかのもの。

また、「万に満つれば、敵する能わず」という言葉(本来は、女真族への警戒を怠るなという時に使われていたもの)を使って、「北だけでなく南を警戒せよ」と訴えている。

ただし、朝鮮にとって、近い将来のことを見ると、1619年のサルフの戦い(参照1)、(参照2)で、重火器を装備した明・朝鮮の連合軍約10万が、女真族のヌルハチが率いる4万の騎兵に敗れている。(朝鮮は義理で送っただけなので、すぐに敗走したのだが)鉄砲隊を含めた包囲殲滅戦術が、少数精鋭の騎兵による各個撃破戦術に敗れるというこの戦いの意味は大きいと思う。(無意味な仮定だが、信長ですらヌルハチには勝てなかったろうよ。)女真族による中国の支配が始まり、江戸幕府が朝鮮に侵攻しなかったことを考えると、姜コウの脅威論は、ほとんど意味を成さなかったかも。

また、姜コウは日本の兵士の精神性についても言及している。

「生を好み、死を憎むのは人も生き物も同じくするであろうに、日本人だけが死を楽しみとし、生を憎むのは、一体どうしてなのか」と問うと、

「日本の将官は民衆の利権を独占し、一毛一髪も民衆に属するものはない。だから、将官に身を寄せなければ、衣食の出どころがない。ひとたび将官の家に身を寄せてしまえば、この体も自分の体ではない。少しでも胆力に欠けると見なされてしまったら、どこへ行っても容れられない。佩刀が良くなければ、人間扱いされない。刀傷が顔の面にあれば、勇気がある者と思い禄を得る。耳の後ろにあれば、逃げ回るだけの者と見なされ排斥される。それだから、食に欠いて死ぬよりは、敵に立ち向かって死力を尽くすほうがましである。力戦するのは、実は自分自身のために計ってそうするのであって、何も主(公)のために計ってするのではない。」

まぁ、すなわち食うために戦って、死を恐れない態度を示さないと、相手にされないとしている。いかにも下克上の時代。忠・孝というような儒教的な精神性は見られない。身分制度としては、ちょうど、刀狩もあった頃なので、兵農分離が始まっているし、この時代の士風が垣間見える。

しかし、これは、「傭われ者」や「下賎の身」の者の話。

「家康・輝元・(上杉)景勝・(伊達)正宗・最上(義光)・(島津)義弘・・・」等々の世襲(に近い大名の)の領地では、「家来もみな代々の家臣で、主将が戦いに敗れて自決すれば、その部下もみな進んで自決する。」

逆に、秀吉のような成り上がり者の領地では、たとえ領土が広く、主君が勇敢でも、「主将が戦いに敗れて自決すれば、その家来は、あるいは散り散りになり、あるいは降伏する」

と、領地によって精神性が異なるということを書いている。
新興大名の土地では、食べるためや、立身出世、己の功名のためなど利己的な目的で戦うが、家臣に武士と言う身分制度が保障され、主君と家臣の一体性が強い土地では、「自決」という手段が当たり前になる。まさに武士道の始まりがここにあるように思える。

もう一つ。
日本では、「海の刀狩」として有名な「海賊停止令」が出されて、当時日本国内でも猛威をふるっていた海賊行為の取り締まりも、「看羊録」には収められている。すなわち、海賊達に武士になるのか、漁師や商人になるのかの二択を求めるような時期でもある。倭寇が載っていないのはしょうがないのかね。

こういった日本の身分制度を見て、姜コウは、朝鮮の身分制度の見直しも求めている。実際、朝鮮で徴発された漁師や領民の士気が低かった。李舜臣のような名将を降ろし、元均のような指導力のない武将と交代させた後の朝鮮兵の逃亡の多さについての証言についても載せている。この辺もなかなか。

あと、一回は。


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